Monday 19 August 2013

創造的に生きる

「創造的な人生」と聞いて、どんなことをイメージしますか?芸術活動のある人生でしょうか?それとも斬新なアイディアいっぱいの人生?あるいは、わくわくどきどきの出来事がいっぱいの人生でしょうか?
おそらく、今挙げたような特徴のある人生はいずれも創造的と言えるのかもしれませんし、そのような生き方が自然にできる人もいると思います。でも、芸術的な才能や、面白いアイディアや、楽しいイベントがなければ、創造的に生きることはできないのでしょうか?

日本の映画に、「亀は意外と速く泳ぐ」(2005年、三木聡監督)という作品があります。これは、平凡な主婦が主人公の物語なのですが、この主人公の名前はスズメといい、どこにでもいて珍しくもない野鳥の名前と同じです。

物語は、主婦のスズメが、全てが「そこそこ」という、全く平凡で特徴のない人生を送っているところから始まります。彼女の人生は、何もかもが可もなく不可もなく、特に困ったこともない代わりに、特別面白いことも、特筆すべきこともない、という状態です。彼女自身、見たところも平凡で、何をやっても平均的であり、スズメはそんな人生に飽き飽きしていると同時に、自分が世界で誰の目にも映らない、透明人間になってしまったかのような気がしています。

ある日、スズメは近所の急な階段の手すりに、「スパイ求む」という非常に小さな広告を見つけます。彼女は興味を引かれ、求人広告に応募することにしました。広告主は彼女を見て、そのあまりの平凡さに彼女を気に入ります。スパイになるためには、とにかくできるだけ平凡でなければならない、なぜならスパイというのはどこにでもいるように見える人物で、つまり特徴がなく、誰の目にもとまらない人でなければならないからだ、というのです。

これをきっかけに、スズメは積極的に、また意識的に、「平凡である」ということがどういうことなのかを考え始めます。「平凡な」日々の買い物、「平凡な」車の運転・・・。そうやっているうちに、スズメは「平凡である」ということが、実はなかなか難しく、いろいろな冒険に満ちていることに気づくのです。そして、その気持ちの変化によって、スズメの平凡な人生は非凡なものとなり、彼女は自分の存在には意味があり、自分が独立した一個の人間であると感じられるようになるのです。

スズメはスパイになった後も、平凡な人生を生き続けます。しかしながら、その「平凡さ」は、スパイになる前と後では全く違った意味を持っていると思われます。スズメが自分の生き方に意味を見出した時、平凡であることは、特別でユニークなことになるのです。

このスズメの人生は、創造的な生き方というものに対して、多くの示唆を与えてくれるように思います。創造性というのは、あらゆる物事に対して、そこに可能性や意味を見出す才能を指しています。そして、その才能は誰にでもあるのです。

創造的な生き方とは、必ずしも他の人にとって面白かったり、目を引くものとは限らないでしょう。けれども、自分の人生を、自分にとって意味があると感じられるやり方で、積極的にかつ意識的に生きた時、それは創造的に生きていると言えるのではないでしょうか。


 
 

Saturday 10 August 2013

まっくろウサギ

誰にでも、自分の中で好きでない部分というのがあります。ときには、自分の中に、思いもしないような、とても不愉快で暗い部分を見つけて愕然とすることもあるでしょう。そういったとき、私たちは、誰にも知られないうちに、できるだけ早くその部分をなかったことにしてしまいたいと思ったりします。 でも、そういった部分は、隠したり、なかったことにするしか仕方のないことなのでしょうか。

この疑問を念頭に置きつつ、最近見つけた、Pilippa Leathers 著、The Black Rabbit (まっくろウサギ)という絵本について、私が考えたことを少し書いてみたいと思います。

ある気持ちの良い朝、ウサギくんは突然、自分がひとりではないことに気づきました。ウサギくんの後ろには、大きなまっくろウサギがじっと立っていたのです。
ウサギくんはまっくろウサギに向こうへ行ってくれるように言いますが、まっくろウサギはウサギくんのあとをずっとついてきます。ウサギくんはまっくろウサギに、どうしてついてくるのか聞きますが、まっくろウサギは答えません。
ウサギくんは、思い切り走ったり、隠れたり、泳いだりしてまっくろウサギから逃げようとしますが、まっくろウサギはどこまで行っても、いつも後ろにいるのです。

絵本では、このまっくろウサギはウサギくんの影法師として描かれています。しかしながら、この影法師を、心理学的な「影」、つまり、ウサギくんにとって、自分でもよくわからない部分、あるいは自分では嫌いな部分、として考えることもできるでしょう。
物語の始めに描かれる、まっくろウサギを見つけた時のウサギくんのショックや戸惑いは、私たちが自分の「影」に出会った時の、わけのわからない不気味な存在を意識した時の気持ちをよく表していると思われます。どうやって付き合えばいいのかもわからないのに、「影」はどこまでも私たちの後ろをついてくるのです。そして、どうやっても「影」をふりきることはできません。

ついに、ウサギくんは深くて暗い森の中へ逃げ込みます。そこではまっくろウサギの姿は見えず、ようやくウサギくんはほっとします。でも、息をついた途端、ウサギくんはまた何かがいることに気づきます。まっくろウサギが再び追いかけてきたのでしょうか?いいえ、違います。オオカミです!ウサギくんは必死になって森の外へ逃げます。ところが、あろうことか、ウサギくんは転んでしまいます。万事休す!

おかしなことに、ウサギくんがもう駄目だ!と思った時、オオカミは尻尾を巻いて逃げていきます。そして、ウサギくんは、後ろを振り向いて、太陽の輝く中、そこにまっくろウサギが胸を張って立っているのを見つけるのです。なんと、まっくろウサギがオオカミを驚かせて、ウサギくんの命を救ってくれたのでした。ウサギくんとまっくろウサギはにっこりと笑いあって、友達になりました。

絶体絶命の瞬間、ウサギくんは万策尽きて、もう終わりだと思います。しかし、そのとき、まっくろウサギが再び登場し、ウサギくんがこれまで考えたこともないような方法で、オオカミを撃退するのです。ウサギくんが本当に危ない時、まっくろウサギは頼りになる仲間として現れ、ウサギくんとまっくろウサギの関係は劇的に変わります。

この最後のシーンについて、まっくろウサギをウサギくんの「影」として改めて考えてみると、「影」には、ウサギくんのまだ知らない才能や、これからの可能性が含まれていることがわかります。ウサギくんは真っ向勝負でオオカミに勝つことはできないでしょうけれど、機転を利かせてオオカミを出し抜くことはできるのです。そして、ある意味では、絶体絶命の危機に陥ったために、ウサギくんがこれまでになく新しい、創造的な才能に目覚めたのだとも言えるかもしれません。

自分の嫌いな部分やよくわからない部分に対して、不愉快になったり、自分が自分でなくなるように感じたりして怖くなったり、否定したくなるのは、自然な反応とも言えるでしょう。人によっては、どうしても仕方がなくなるまで、そのような部分を、なかったことにしたり、隠したり、見ないようにしたりして過ごすかもしれません。そのような部分を受け入れることができるまで、長い時間がかかるかもしれません。

でも、もし、自分の「影」に向き合って、その部分と対話し、関係を築くことができれば、これまで自分の中にあるとは思いもしなかったような可能性がひらかれていくのだと思います。


目に見えないものに思いを馳せる


今日は、心理療法におけるユング心理学の考え方を少しご紹介するとともに、私がこのブログのタイトルとして、なぜ towards wholeness という言葉を選んだのかについて書きたいと思います。

坂村真民による以下の詩をご存知でしょうか。

 「ねがい」
  見えない根たちの
  ねがいがこもって
  あのような
  美しい花となるのだ

この詩はとても短いですが、人生におけるとても大切なメッセージが含まれているように思います。

私たちは普段、美しい花には簡単に目が行きますが、土の下にある根たちにはほとんど注意を向けることがありません。たまたま何かの拍子に根を目にする機会があったとしても、ほとんど意識をすることもありませんし、見るほどのものとは思っていませんから、土をかぶせて見えなくしてしまいます。

しかしながら、植物にとって、根はなければ生きてはいけないものです。根がしっかりと地面に根付いていることで、栄養や水を取り入れることができ、しっかりと立っていることができるのです。

とはいえ、私たちが根のことをもっと知りたいと思ったとしても、根は地下にあって、簡単に見ることはできない部分でもあります。根を見ようとして、無理に地面から抜いてしまったとしたら、根を傷めてしまいますし、へたをすれば植物自体が死んでしまうかもしれません。そう考えると、根は直接は知ることのかなわないものとも言えるでしょう。

坂村真民の詩によると、美しい花には、見えない根たちのねがいがこもっているのです。目には見えない「ねがい」というものが、目に見える部分である「花」を通じて世に示されているというのです。

つまり、植物の見えない部分である根について知ろうとするには、見る側は、想像力や創造力をはたらかせたり、根の気持ちになってみたりすることが必要になってきます。また、根に思いを馳せることは、すなわち、植物の、見える部分と見えない部分の両方を含めた全体を大事にすることにもつながるのです。

ひとつひとつの花は、たとえそれがどれほど似ているようであっても、違いがあり、それぞれの美しさがあります。
この詩に描かれている植物を、一人の人間としてとらえ直してみると、一人ひとりの人にはそれぞれユニークな存在としての美しさがあり、それを支える目には見えない部分があるのだ、と考えることができます。
目に見える部分も、目に見えない部分も、全体のバランスの中で大事にされるとき、その人は、もっともその人らしい生き方ができると思われます。

このような、個人をユニークな全体としてとらえる考え方は、ユング心理学の基本的な姿勢でもあります。
私がこのブログを towards wholeness (その人らしさへ向かって)と名づけたのは、この言葉が、ユング心理学の考え方をよく表していると同時に、私自身がそのような生き方をしたいと考えているからです。私は、人は世界とも、自分の心ともバランスのとれた生き方をすることができれば、安定して豊かな人生を歩めると思っています。



はじめまして

私のブログ、towards wholeness (日本語版)へ来てくださってありがとうございます。
ここでは、ユング心理学の視点から、日常生活で考えたことなどを書いていきたいと思っています。
今のところ、英語版と同じ記事の内容を中心にして、日本語版を書いていくつもりです。
このブログを読んでくださった方が、少しでも興味を引かれたり、共感してくださることがあれば嬉しいです。
よろしくお願いいたします。