Sunday 27 October 2013

自分らしさへ、最初の一歩を踏み出す

自分らしく生きたいと思うのは、誰にでもある自然な欲求なのではないでしょうか。でも、いろいろなしがらみや状況によって、自分の気持ちを表現することが、わがままで自分勝手なように思えて、なかなか最初の一歩を踏み出すことができない、ということもあるように思います。

さて、よく知られているグリム童話に、「カエルの王様」というお話があります。
 
ある国に、美しいお姫様がいて、可愛がられていました。ある日、お姫様は遊んでいた金のボールを古井戸に落としてしまいました。お姫様が泣いていると、気味の悪いカエルが現れ、もしお姫様がこの先カエルと何でも一緒にしてくれるのなら、ボールを取って来てあげる、と言います。お姫様は、内心とんでもないと思いながらも、カエルの望みを叶えることを約束します。カエルはボールを取ってくれますが、お姫様はボールを取り返すと、カエルを振り切って、お城に帰ってしまいました。翌日、お姫様が食事をしていると、カエルがお城にやってきて、約束を守るように要求します。父親である王様は、お姫様に約束を守るように言い、お姫様はいやいやながらもカエルと一緒に食事をすることになりました。カエルは更に、お姫様と同じ部屋に行き、同じベッドで寝ることを要求します。たまりかねたお姫様は、「あんたには壁がお似合いよ!」とカエルを壁に叩きつけます。その途端、カエルはハンサムな王子様に変身し、悪い魔女に魔法をかけられてカエルの姿になっていたのだと説明します。王子様の求婚に応えて、お姫様は王子様と結婚することになりました。

 
この物語を読んで、どう思われますか?守れない約束をしておいて、約束を盾に迫られると、怒ってカエルを壁に叩きつけるなんて、なんてわがままなお姫様なんだろう、とあきれられたり、それにもかかわらず、王子様と結婚してハッピーエンドなんておかしい、と憤慨されたりするかもしれませんね。実は、これはこのお話を読んで私がまず感じたことです。

でも、今は、同じ話を別の角度から読み解くことで、とても大事な示唆を受け取ることができるのではないか、と考えています。
 
もう一度、このお話の要点を整理してみましょう。大事に育てられた美しいお姫様が、カエルとの出会いとやり取りを通して嫌だという気持ちを持ち始め、押しつけられる要求に対して怒り、その怒りにまかせてカエルを拒絶し、その結果、カエルがハンサムな王子様に変身するわけです。

約束をしておいて、それを守るのが嫌だからと相手に暴力をふるうなんて、まさにひどい展開ですが、おそらく、お姫様のこの理不尽な怒りの高まりがなければ、カエルが王子様になり、ハッピーエンドになることもなかったでしょう。そう考えると、カエルと出会うことで、お姫様の醜い部分が出てきて、その醜さが頂点に達するところで王子様が魔法から解き放たれる、という展開は、この物語で大変重要なポイントだと思われます。
 
お話の最初に、お姫様がどれほど美しいか、どれほど大切に育てられたかが語られています。しかしながら、彼女はお城の中で大切に守られ、称賛されて、金のボールで遊ぶだけの、まさに人形のような姫だったのではないでしょうか。いかに美しくても、そこに彼女らしい個性の輝きはないのです。

その彼女が、初めて出会った異質で意に添わないものが、カエルだったわけです。カエルに出会って初めて、お姫様は理屈ではない嫌悪を感じます。彼女は守るつもりのない約束をして逃げますが、これがいかに幼稚で不誠実な行為であっても、彼女にとっては、初めて他者の思惑や規範よりも、自分の感情を優先した行為だったのではないかと思われます。
 
父親である王様は、お姫様に「約束は守るべきだ」と言います。王様の言うことは正しくて、社会生活を送る上でとても大事な規範を示しています。その正義について反論の余地はないのですが、この正義には、お姫様の感情の行きどころはありません。

もし、彼女がまさに人形のように、感情のない存在であれば、おとなしく王様の言葉に添って、カエルが何を要求しても唯々諾々と従ったでしょう。その場合、カエルは表面上は丁寧に扱われるかもしれませんが、お姫様とカエルが何を一緒にしようと、そこには全く感情のやり取りはなく、軋轢もなく、カエルが魔法から解放されて王子様に変身することもなかったのではないでしょうか。
 
もし、彼女がもう少し情緒的に大人であったならば、嫌だという気持ちを言葉で表現して、約束であったとしてもカエルの要求を受け入れることはできないと伝え、謝罪して、どうすればいいのか話し合うことで、別の解決方法を探ることができたかもしれません。
 
しかし、お話のお姫様は、おそらくこれまで自分の気持ちを意識することも、表現することもなく、嫌な感情の行きどころに困ることもなかったのでしょう。しかも、この彼女の感情は、王様のいう正義からも、「美しい王女」として期待されている行動からも、外れています。そう考えると、彼女が、どうすればいいのかわからないまま、とにかく絶対嫌だ!という気持ちを膨らませ、それを爆発させるしか、自分の気持ちの表現方法を見つけられなかった、というのもうなずけるのです。
 
カエルを壁に叩きつけるという彼女の感情の爆発は、直情的で子どもっぽく、醜いと言わざるを得ませんが、何事も、最初の試みというのは無様で目も当てられないものになりがちなのではないでしょうか。また、この彼女の感情の爆発があってこそ、カエルを縛っていた魔法が解け、王子様が自由の身となって現れるという、新しい展開が生まれているのです。この物語をお姫様の成長の物語として読むと、それがどれほどひどい行為でも、彼女が自分らしく生きるためには必要な、最初の一歩だったのではないかと思われます。

彼女は、カエルと出会い、怒りを感じ、その感情を爆発させることを通して、美しい人形から、個性のある生きた人間へと変身した、とも言えるのです。彼女が王子様と結婚したことは、彼女がカエル/王子様という、自分とは異なる存在と、対等で意識的な関係を築くことを示唆していると考えられます。人形のままでは、カエルとの関係が発展することはなかったわけですから、これは彼女の人間としての成長を示しているのでしょう。
 
自分らしく生きようと思うと、四角四面ではいかない感情のように、理屈では収まらない、場合によっては醜く感じられる要素にも直面せざるを得ません。でも、そういった要素をいかに自分のものとして抱え、表現するか、その成長の過程が、その人らしさ、ひいてはその人の、人間としての美しさにつながるのではないでしょうか。「カエルの王様」の物語は、人がこの過程に踏み出す、最初の一歩を描き出しているのではないかと思うのです。



 

(*本記事は、FTF Business Women クーポンブック(2013年10月27日発行)に掲載されたものです。)
 

Monday 19 August 2013

創造的に生きる

「創造的な人生」と聞いて、どんなことをイメージしますか?芸術活動のある人生でしょうか?それとも斬新なアイディアいっぱいの人生?あるいは、わくわくどきどきの出来事がいっぱいの人生でしょうか?
おそらく、今挙げたような特徴のある人生はいずれも創造的と言えるのかもしれませんし、そのような生き方が自然にできる人もいると思います。でも、芸術的な才能や、面白いアイディアや、楽しいイベントがなければ、創造的に生きることはできないのでしょうか?

日本の映画に、「亀は意外と速く泳ぐ」(2005年、三木聡監督)という作品があります。これは、平凡な主婦が主人公の物語なのですが、この主人公の名前はスズメといい、どこにでもいて珍しくもない野鳥の名前と同じです。

物語は、主婦のスズメが、全てが「そこそこ」という、全く平凡で特徴のない人生を送っているところから始まります。彼女の人生は、何もかもが可もなく不可もなく、特に困ったこともない代わりに、特別面白いことも、特筆すべきこともない、という状態です。彼女自身、見たところも平凡で、何をやっても平均的であり、スズメはそんな人生に飽き飽きしていると同時に、自分が世界で誰の目にも映らない、透明人間になってしまったかのような気がしています。

ある日、スズメは近所の急な階段の手すりに、「スパイ求む」という非常に小さな広告を見つけます。彼女は興味を引かれ、求人広告に応募することにしました。広告主は彼女を見て、そのあまりの平凡さに彼女を気に入ります。スパイになるためには、とにかくできるだけ平凡でなければならない、なぜならスパイというのはどこにでもいるように見える人物で、つまり特徴がなく、誰の目にもとまらない人でなければならないからだ、というのです。

これをきっかけに、スズメは積極的に、また意識的に、「平凡である」ということがどういうことなのかを考え始めます。「平凡な」日々の買い物、「平凡な」車の運転・・・。そうやっているうちに、スズメは「平凡である」ということが、実はなかなか難しく、いろいろな冒険に満ちていることに気づくのです。そして、その気持ちの変化によって、スズメの平凡な人生は非凡なものとなり、彼女は自分の存在には意味があり、自分が独立した一個の人間であると感じられるようになるのです。

スズメはスパイになった後も、平凡な人生を生き続けます。しかしながら、その「平凡さ」は、スパイになる前と後では全く違った意味を持っていると思われます。スズメが自分の生き方に意味を見出した時、平凡であることは、特別でユニークなことになるのです。

このスズメの人生は、創造的な生き方というものに対して、多くの示唆を与えてくれるように思います。創造性というのは、あらゆる物事に対して、そこに可能性や意味を見出す才能を指しています。そして、その才能は誰にでもあるのです。

創造的な生き方とは、必ずしも他の人にとって面白かったり、目を引くものとは限らないでしょう。けれども、自分の人生を、自分にとって意味があると感じられるやり方で、積極的にかつ意識的に生きた時、それは創造的に生きていると言えるのではないでしょうか。


 
 

Saturday 10 August 2013

まっくろウサギ

誰にでも、自分の中で好きでない部分というのがあります。ときには、自分の中に、思いもしないような、とても不愉快で暗い部分を見つけて愕然とすることもあるでしょう。そういったとき、私たちは、誰にも知られないうちに、できるだけ早くその部分をなかったことにしてしまいたいと思ったりします。 でも、そういった部分は、隠したり、なかったことにするしか仕方のないことなのでしょうか。

この疑問を念頭に置きつつ、最近見つけた、Pilippa Leathers 著、The Black Rabbit (まっくろウサギ)という絵本について、私が考えたことを少し書いてみたいと思います。

ある気持ちの良い朝、ウサギくんは突然、自分がひとりではないことに気づきました。ウサギくんの後ろには、大きなまっくろウサギがじっと立っていたのです。
ウサギくんはまっくろウサギに向こうへ行ってくれるように言いますが、まっくろウサギはウサギくんのあとをずっとついてきます。ウサギくんはまっくろウサギに、どうしてついてくるのか聞きますが、まっくろウサギは答えません。
ウサギくんは、思い切り走ったり、隠れたり、泳いだりしてまっくろウサギから逃げようとしますが、まっくろウサギはどこまで行っても、いつも後ろにいるのです。

絵本では、このまっくろウサギはウサギくんの影法師として描かれています。しかしながら、この影法師を、心理学的な「影」、つまり、ウサギくんにとって、自分でもよくわからない部分、あるいは自分では嫌いな部分、として考えることもできるでしょう。
物語の始めに描かれる、まっくろウサギを見つけた時のウサギくんのショックや戸惑いは、私たちが自分の「影」に出会った時の、わけのわからない不気味な存在を意識した時の気持ちをよく表していると思われます。どうやって付き合えばいいのかもわからないのに、「影」はどこまでも私たちの後ろをついてくるのです。そして、どうやっても「影」をふりきることはできません。

ついに、ウサギくんは深くて暗い森の中へ逃げ込みます。そこではまっくろウサギの姿は見えず、ようやくウサギくんはほっとします。でも、息をついた途端、ウサギくんはまた何かがいることに気づきます。まっくろウサギが再び追いかけてきたのでしょうか?いいえ、違います。オオカミです!ウサギくんは必死になって森の外へ逃げます。ところが、あろうことか、ウサギくんは転んでしまいます。万事休す!

おかしなことに、ウサギくんがもう駄目だ!と思った時、オオカミは尻尾を巻いて逃げていきます。そして、ウサギくんは、後ろを振り向いて、太陽の輝く中、そこにまっくろウサギが胸を張って立っているのを見つけるのです。なんと、まっくろウサギがオオカミを驚かせて、ウサギくんの命を救ってくれたのでした。ウサギくんとまっくろウサギはにっこりと笑いあって、友達になりました。

絶体絶命の瞬間、ウサギくんは万策尽きて、もう終わりだと思います。しかし、そのとき、まっくろウサギが再び登場し、ウサギくんがこれまで考えたこともないような方法で、オオカミを撃退するのです。ウサギくんが本当に危ない時、まっくろウサギは頼りになる仲間として現れ、ウサギくんとまっくろウサギの関係は劇的に変わります。

この最後のシーンについて、まっくろウサギをウサギくんの「影」として改めて考えてみると、「影」には、ウサギくんのまだ知らない才能や、これからの可能性が含まれていることがわかります。ウサギくんは真っ向勝負でオオカミに勝つことはできないでしょうけれど、機転を利かせてオオカミを出し抜くことはできるのです。そして、ある意味では、絶体絶命の危機に陥ったために、ウサギくんがこれまでになく新しい、創造的な才能に目覚めたのだとも言えるかもしれません。

自分の嫌いな部分やよくわからない部分に対して、不愉快になったり、自分が自分でなくなるように感じたりして怖くなったり、否定したくなるのは、自然な反応とも言えるでしょう。人によっては、どうしても仕方がなくなるまで、そのような部分を、なかったことにしたり、隠したり、見ないようにしたりして過ごすかもしれません。そのような部分を受け入れることができるまで、長い時間がかかるかもしれません。

でも、もし、自分の「影」に向き合って、その部分と対話し、関係を築くことができれば、これまで自分の中にあるとは思いもしなかったような可能性がひらかれていくのだと思います。


目に見えないものに思いを馳せる


今日は、心理療法におけるユング心理学の考え方を少しご紹介するとともに、私がこのブログのタイトルとして、なぜ towards wholeness という言葉を選んだのかについて書きたいと思います。

坂村真民による以下の詩をご存知でしょうか。

 「ねがい」
  見えない根たちの
  ねがいがこもって
  あのような
  美しい花となるのだ

この詩はとても短いですが、人生におけるとても大切なメッセージが含まれているように思います。

私たちは普段、美しい花には簡単に目が行きますが、土の下にある根たちにはほとんど注意を向けることがありません。たまたま何かの拍子に根を目にする機会があったとしても、ほとんど意識をすることもありませんし、見るほどのものとは思っていませんから、土をかぶせて見えなくしてしまいます。

しかしながら、植物にとって、根はなければ生きてはいけないものです。根がしっかりと地面に根付いていることで、栄養や水を取り入れることができ、しっかりと立っていることができるのです。

とはいえ、私たちが根のことをもっと知りたいと思ったとしても、根は地下にあって、簡単に見ることはできない部分でもあります。根を見ようとして、無理に地面から抜いてしまったとしたら、根を傷めてしまいますし、へたをすれば植物自体が死んでしまうかもしれません。そう考えると、根は直接は知ることのかなわないものとも言えるでしょう。

坂村真民の詩によると、美しい花には、見えない根たちのねがいがこもっているのです。目には見えない「ねがい」というものが、目に見える部分である「花」を通じて世に示されているというのです。

つまり、植物の見えない部分である根について知ろうとするには、見る側は、想像力や創造力をはたらかせたり、根の気持ちになってみたりすることが必要になってきます。また、根に思いを馳せることは、すなわち、植物の、見える部分と見えない部分の両方を含めた全体を大事にすることにもつながるのです。

ひとつひとつの花は、たとえそれがどれほど似ているようであっても、違いがあり、それぞれの美しさがあります。
この詩に描かれている植物を、一人の人間としてとらえ直してみると、一人ひとりの人にはそれぞれユニークな存在としての美しさがあり、それを支える目には見えない部分があるのだ、と考えることができます。
目に見える部分も、目に見えない部分も、全体のバランスの中で大事にされるとき、その人は、もっともその人らしい生き方ができると思われます。

このような、個人をユニークな全体としてとらえる考え方は、ユング心理学の基本的な姿勢でもあります。
私がこのブログを towards wholeness (その人らしさへ向かって)と名づけたのは、この言葉が、ユング心理学の考え方をよく表していると同時に、私自身がそのような生き方をしたいと考えているからです。私は、人は世界とも、自分の心ともバランスのとれた生き方をすることができれば、安定して豊かな人生を歩めると思っています。



はじめまして

私のブログ、towards wholeness (日本語版)へ来てくださってありがとうございます。
ここでは、ユング心理学の視点から、日常生活で考えたことなどを書いていきたいと思っています。
今のところ、英語版と同じ記事の内容を中心にして、日本語版を書いていくつもりです。
このブログを読んでくださった方が、少しでも興味を引かれたり、共感してくださることがあれば嬉しいです。
よろしくお願いいたします。